

アルバイトをしながら演劇を続けていた黒澤。目立つことが好きで、演劇をしながら雑誌モデルや俳優などのオーディションを数多く受けていた。アルバイト時代にはタレント事務所からスカウトされることもあったが、彼が選んだのは大庄で正社員として働く道だった。
27歳までにひと花咲かせられなかったら劇団はあきらめようと前々から思っていました。周りの友人がそうでしたが、それなりに出世し始める年齢でしたしね。自分の中で焦りもあったと思います。とにかくストイックに働きたかったんですよ。劇団はいつでもやろうと思えば再開できるし。それで社会人のけじめとして、まずは正社員になりました。大庄を選んだわけは、アルバイト時代から尊敬していたT店長がいたから。どうしても一緒に働きたいと思ってね。もちろんT店長を超えたいという思いもありました。でも、しばらくして「この人には勝てないな」と。それぐらいスゴイ人でした。
正社員という責任ある立場として新たなスタートを切った黒澤。尊敬するT店長は、男性ながら毎日化粧をしてから店に立つ「究極のアクター」だった。強烈なインパクトから来る興味と、憎めないキャラクターで多くの人々を虜にする。一見、ただふざけているようにしか見えないが、実際は記録的な売上を叩き出す、知る人ぞ知る伝説の店長だった。
T店長とやり取りして座席の埋まり具合を逐一報告していました。でも店長は満席になっていようがそんなことはお構いなしで、次から次へお客さまを呼んでくるんです。「お客さまでイッパイですっ!」って悲鳴をあげても「どうにかしろ」って淡々とした返事が返ってくるだけ。本当に冷や汗が出てくるぐらいにお客さまを呼んでくる。副店長だった僕がどうにかするしかなくて、ときにはお客さまに席をお待ちいただいてる間、立ったままでビール飲んいただいたり、お店のらせん階段で接客をしたり。それはもうめちゃくちゃな毎日でした。でもそういう状況におかれると、すべてのスタッフが頭をフル回転させて知恵を絞るんですよね。心を舞い上がらせながら、食事を運び、お客さまと目で、言葉で、体で次々コミュニケーションをとっていく。お店は物凄い活気に包まれていました。お客さまもスタッフも、みんなその空気を楽しんでいるといった感じでしたよ。
とにかく早く独立をしたい。独立して繁盛店を作りたい。父親が企業の経営者だったから起業することは僕にとって小学生から中学生に上がるような成長のステップです。
それから、ある日「すき焼きを食べたい」と言うお客さまをT店長は「OK」のひと言で連れてきたんです。お店のメニューにはすき焼きはなかったので、当然調理場にはすき焼き用の肉がありません。それでアルバイトの子が1万円を渡されて肉屋に買いに走ったんですよ。で、買ってきたのは2人前で7,000円もするかなり高級な部類に入るお肉。でもT店長はそれを1,500円くらいで販売しちゃったんです。本当の話ですよ。
究極に人を喜ばせることをなりふり構わず、また徹底してやり遂げようとするT店長と、追い込まれることで力と知恵を振り絞って切り盛りするスタッフたち。ふたつの歯車が「接客」というキーワードを軸にかみ合うとき、店はまるでカーテンコールの喝采のような大きな活気に包まれる。
僕が店長に昇格してお店を任せてもらってからも、その経験が生かされています。まず、どんなにたくさんのお客さまが来ても、質を落とさず接客できるという自信があります。そのコツは、お客さまの一挙手一投足をできるだけ細かく見ることと、多くコミュニケーションをとることです。「お客さまの来店動機を探る」などと言ったりしますが、そうすることで、自分が採るべき行動の三手先、四手先を予測できるようになります。あとは事前に準備して、タイミングを測って行動に出れば良いわけです。先の予測だけでなく、深く相手を理解できるので、ひと味もふた味も違う接客ができるというメリットもあります。たとえば、接待でお店を利用されているお客さまで、本来もてなすべき人があまり上手にできていないことがあります。そういうときは、スタッフが代わりに接待相手を気づかって「お酒のおかわりはいかがですか?」ってお声がけするんです。良い雰囲気の中で食事をすることで、お客さまのお仕事がより円滑に運ぶようになってほしいから。そこで大切なのが「気づき」です。「接待だな」と気づくか、気づかないかでガラリと変わります。接客の質も、お客さまの満足も、さらにはお客さまの仕事がうまくいくかも。
黒澤は、今まで得てきた確かな経験を、自らが抱える多くのスタッフに伝えるため日々努力している。しかし、そこは一筋縄ではいかない。
スタッフの育成に力を入れれば入れるほど、「言葉だけの育成」に限界を感じます。それで、「経験」を重視した育成を早い段階で試みました。若いスタッフを飲みに連れていって、いろいろなシュチュエーションを経験させるんです。さっきお話した「接待」も体験させたりします。そうすると自分のことのように理解でき、「あ、そっか」ってなるわけです。でも、それでも根本的な解決にはなっていません。経験したシュチュエーション以外は、対応できないので。
黒澤は、「気づくことが習慣となっていない」ことにすべての原因があると考えている。「指示されないとできない」「やって良いと言われなければ動かない」そういう『マニュアル型』の若者が増えており、いままさに新たな育成方法を模索しているところだ。
ほかの店へ1日だけヘルプとして出す試みを最近始めました。違う環境で仕事をしてみれば、まずは観察するだろうって思ってね。それで新しい情報が入れば、刺激となって頭の中でいろいろ整理するだろうから、その延長で「気づく」ようにもなるんじゃないかなってね。一種の「脳トレ」みたいなものです。この「気づく」という能力が必要なのは、この業界だけのことではないと思っています。仕事をする上で最低限必要なことで、何ら特別なスキルではありません。でもとても大切なことです。
黒澤自身はスタッフの育成を心から楽しんでいる。道半ばではあるが、原因を把握している以上、解決策を見いだすのも時間の問題だろう。そんな彼に、今後の目標を聞いた。
僕は、すべてがすべてT店長のやり方を真似しているのではなくて、良い部分はどんどん取り込む一方で、足りてなかった部分はお店の責任者としてしっかり補うようにしています。T店長は恩師でもあり、反面教師でもあるんです。目標ですが、T店長がアクターとして多くの人を魅了してきたように、自分もアクターとして表現力をもっともっと磨き、いつかは彼のようにたくさんの人を引きつける、そんな存在になりたいですね。それから、いまのお店をもっと活気づけて、その上で独立したいです。結婚もしておかなきゃとも思っています。こなしていかなければならないことは多いですが、焦らずひとつ一つやっていきます。



















